~何か書く~

暇を持て余す無職です。読んだ本の要約などを書いていきます。

所有書籍一覧

手元にある書籍をまとめておきます。新たに購入したものは随時追加していきます。


『ソクラテスの弁明 ほか(プラトン)』(中公クラシックス)
『プロタゴラス(プラトン)』(岩波文庫)
メノン(プラトン)』(岩波文庫)
『饗宴(プラトーン)』(新潮文庫)
『パイドン(プラトン)』(岩波文庫)
『パイドロス(プラトン)』(岩波文庫)
『テアイテトス(プラトン)』(岩波文庫)
『エピクロス』(岩波文庫)

『友情について(キケロー)』(岩波文庫)
『自省録(マルクス・アウレーリウス)』(岩波文庫)

『痴愚神礼讃(エラスムス)』(中公文庫)
『ユートピア(トマス・モア)』(岩波文庫)
『エラスムス=トマス・モア往復書簡』(岩波文庫)

ノヴム・オルガヌム(ベーコン)』(岩波文庫)
方法序説(デカルト)』(岩波文庫)
哲学原理(デカルト)』(岩波文庫)
精神指導の規則(デカルト)』(岩波文庫)
情念論(デカルト)』(岩波文庫)
省察(ルネ・デカルト)』(ちくま学芸文庫)

知性改善論(スピノザ)』(岩波文庫)
人間知性論(一)(ジョン・ロック)』(岩波文庫)
人間知性論(二)(ジョン・ロック)』(岩波文庫)
『人間知性論(三)(ジョン・ロック)』(岩波文庫)
『人間知性論(四)(ジョン・ロック)』(岩波文庫)
知性の正しい導き方(ジョン・ロック)』(ちくま学芸文庫)
『フランクリン自伝』(岩波文庫)
『人性論(ヒューム)』(中公クラシックス)
孤独な散歩者の夢想(ルソー)』(岩波文庫)

『プロレゴメナ(カント)』(岩波文庫)
『道徳形而上学原論(カント)』(岩波文庫)
『意志と表象としての世界Ⅰ(ショーペンハウアー)』(中公クラシックス)
『意志と表象としての世界Ⅱ(ショーペンハウアー)』(中公クラシックス)
『意志と表象としての世界Ⅲ(ショーペンハウアー)』(中公クラシックス)
『自殺について(ショウペンハウエル)』(岩波文庫)
読書について(ショウペンハウエル)』(岩波文庫)
『知性について(ショーペンハウエル)』(岩波文庫)
幸福について-人生論-(ショーペンハウアー)』(新潮文庫)
『不安の概念(キェルケゴール)』(岩波文庫)
『死に至る病(キェルケゴール)』(岩波文庫)

社会学の根本問題(ジンメル)』(岩波文庫)
職業としての学問(マックス・ウェーバー)』(岩波文庫)
『ソクラテス以前以後(F.M.コーンフォード)』(岩波文庫)
大衆の反逆(オルテガ・イ・ガセット)』(ちくま学芸文庫)
哲学入門(ヤスパース)』(新潮文庫)
『論理哲学論考(ウィトゲンシュタイン)』(岩波文庫)
『青色本(L・ウィトゲンシュタイン)』(ちくま学芸文庫)

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『人間知性論(二)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その5


【第十六章 数について】(p.77~84)

 観念のなかで、単一すなわち一の観念ほど単純な観念はない。この観念を心で反復し、いっしょに足して、数の様相の複雑観念が得られる。一に一を足して一対の観念、十二の単位を一緒にして一ダースの観念、というようにである。

 数の観念は延長の場合よりいっそう精確で区別できる。九十一から九十を区別できるのは、九千から区別するのと同じである。いっぽう延長において、きっかり一インチと、一インチよりほんの僅かだけ多いものとは、そうそう簡単に区別できない。

 大きな単位群から集成が作られる場合、名前ないし標印(しるし)がなければ、数をほとんどうまく利用できない。あるアメリカ原住民は、20まではとてもうまく数えられるのに、1000までは私たちのようにはどうしても数えられなかった。その人たちの言語は乏しく、単純な生活の僅かな必要ごとに適応するだけで、1000を表すことばがなかったためである。

 子供たちは数のいろいろな列を標示する名前を欠くか、数えるのに必要な機能をまだ持たないかのどちらかである。子供たちは20を言える前に、数以外のいろいろな事物のごく明晰な想念を持つものである。
 正しく数えるには次のことが要求される。
  ①一つの単位を足したり引いたりするだけで、互いに違う二つの観念を心が入念に区別すること。
  ②一つの単位からその数までのいろいろな集積の標印を記憶に把持し、しかも正確な順序で把持すること。

 数は、すべての事物を測定するさいに心が使うものである。この測定できる事物は主として広がりと持続である。そして、無限の観念は数の無限に他ならないように思われる。永遠の観念は、持続と広がりの想像された部分を、足す終わりに到達できないという数の無限をともなって、反復し足すことだと思われるからである。付加可能性は、無限のもっとも明晰で判明な観念を私たちに与えると、私(ロック)は考える。これについては次章でさらに考察する。


 (その6に続く)

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『人間知性論(二)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その4


【第十五章 持続と広がりを合わせた考察について】(p.62~76)

 私は混乱を避けるため、距離ないし空間の最も単純で抽象的な想念を広がりと呼んで、延長と区別する。
 心は広がりの任意の部分の長さの観念を得てしまうと、この観念を反復でき、この観念を前の観念に足して長さの観念を拡大できる。そうして長さの観念は地球の任意部分相互の距離に等しくなり、さらに太陽やもっと遠い星の距離になる。心はこの終わりない広がりの中へ進んで行くのを妨げる事物をなにも見出さない。

 心は持続のある長さの観念を得てしまうと、心自身の存在を越え、あらゆる形体的存有者の存在と、世界の大きさを越えて、持続の長さの観念を拡大できる。とはいえ私たちは持続を、あらゆる存有者を越えて拡げることはできない。

 持続も延長も神より他の色々な存有者の性状の名前として用いられるが、私たちは神に無限持続を容易に想念して、そうすることを避けるわけにはいかない。ところが延長は神の属性としないで有限である物質の属性とするので、私たちは延長を属性とする唯一のものと想定されるのが普通な物質の無い広がりの存在をいっそう疑いがちになる。それゆえ、人々が空間についての思惟を追ってゆくとき、ともすれば空間も物体の果てで終わり、それ以上に達しないかのように物体の果てで立ち止まりがちである。

 時間と場所は、区別でき感知できる事物のうちに固定されて相互に同じ距離を保つと想定される既知の一定諸点からの確定的な距離の観念にほかならない。持続と空間とはそれ自身には一様で無限界だから、既知の定着した諸点がなければ、事物の順序と位置は持続と空間のうちに失われ、あらゆる事物は混乱の内に雑然と横たわる。

 時間一般は、無限な持続の中から諸物体の存在と運動とによって測り分けられ、これと共存するだけのものとされるのが普通である。この意義では、時間は可感的世界の組み立てとともに始まり、これとともに終わる。同じように、場所は無限空間から物質世界によって占められ、その内部に包括され、それによって残りの広がりと区別される取り分とされるときがある。

 時間という言葉は時折いっそう広い意義に用いられる。つまり指定された周期的物体運動によって真実に区別された部分でなく、無限で一様な持続の中で私たちが何かの必要に応じて一定の測定された時間の長さに等しいと想定し、無限持続の他の取り分にも当てはめられる。同じように、私たちは世界の果てを越えた場所や距離やかさについて語るときがある。

 「どこ」と「いつ」はいっさいの有限な存在に属する疑問である。ある固定した部分や周期がなければ、事物の秩序は、持続と広がりの無限界無変動な大洋の中で私たちの有限な知性に失われるだろう。
 ある物体の延長は、無限な空間からその物体のかさが取るだけである。場所はある物体が他のある物体から一定の距離にあると考えられたとき、その物体の位置である。

 空間も持続も単純観念に数えて正当である。私たちがどちらについて持つ判明な観念も、どれ一つとしてどんな様式の構成もまったく欠いていない。部分から成ることが、空間と持続の双方のまさに本性なのである。
 心は部分のない延長または持続のある間隔の観念を形成できないので、使い慣れ記憶に印銘された共通尺度(インチ、フィート、秒、年など)を使用する。
 持続のあらゆる部分はこれもまた持続であり、延長のあらゆる部分は延長であって、どちらも無限に足せるし分割できる。しかしどちらについても私たちが明晰判明な観念をもつ最小の構成部分は、空間・延長・持続の複雑な様相を作り、またこの様相を再び判明に分解できるような種類の単純観念として私たちに考えられるのが、最も適当だと思われる。

 広がりと持続はどちらも部分を持つと私たちは考え、それら部分は相互に分離できない。真実に分離できないだけでなく、思惟でさえ分離できない。

 広がりと持続の間には、次の明白な違いがある。広がりについて私たちが持つ長さの観念は、どちらの方へも向けられ、形・幅・厚さを作る。持続はいわば無限に延びる一直線の長さだけで、重複も変動も形も許さず、ありとあらゆる存在の一つの共通な尺度である。

 持続とその部分である時間は、消え去る距離について私たちの持つ観念であって、その二つの部分は一緒に存在せず継起しながら相次いで起こる。また、広がりは永続する距離の観念で、その全部分は一緒に存在し、継起できない。それゆえ、私たちは継起のない持続を想念できない。
 とはいえ私たちは、人間その他有限な存有者とも全く違う全能者の永遠な持続を想念できる。人間は一度過ぎ去ったものを呼び返せず、やがて来るものを現に在らせることはできない。全ての有限な存有者は、神自身に比べては最も卑小な被造物の域を出ない。
 神は過去と未来のあらゆる事物を見通す。万物の存在は神のよき思召しに基づき、神が存在させてよいと考える全ての瞬間に万物は存在する。


 (その5に続く)

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『人間知性論(二)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その3


【第十四章 持続とその単純様相について】(p.38~61)

 持続の観念とは、空間の恒久的な部分からは得られず、継起の過ぎ行く永久に消え去る部分から得られるものである。その単純様相は持続の様々なある長さであり、私たちは時・日・年などや時間と永遠のような判明な観念を持つ。
 持続や時間や永遠の本性にはひどく難解なものがあると考えられがちである。しかしそれらの源まで正しく辿れば、感覚または内省のひとつがこうした観念を、他の多くの観念と同様に明晰判明に提供できるように思われる。

 私たちの心へいろいろな観念が次々あらわれることの内省、これが私たちに継起の観念を提供する。この継起の任意の部分間の距離、これが私たちの持続と呼ぶものである。
 観念の継起がなくなれば、私たちの近くも一緒になくなる。ぐっすりと眠っている間、事物の持続の知覚は全くなく、その人にまったく失われる。かりにもし目覚めている人が心にただ一つだけの観念を変動なく、他の観念の継起もなく保有できるなら、目覚めている人間でも持続の知覚はないだろう。
 人々は自分自身の知性に次々と継起するのを観察する観念系列の内省から持続の観念を得るのであり、こうした観察なしでは世の中に何ごとが起ころうと、持続の思念を持てない。

 自分自身の思惟が継起し数多いことを内省して、それから持続の思念や観念を得てしまえば、思考しない間も存在する事物へこの持続の思念を当てはめることができる。物体から延長観念を得てしまった者が、見られも触られもしない距離へ延長観念を当てはめられるのと同じである。

 非常に遅い運動は、絶え間なく続けられても私たちは知覚しない。そういう運動は変化が非常に遅いので、かなりの間を置かなければ新しい観念を生まない。
 また非常に速い運動は、別個に感官を感発することがなく、動くとは知覚されない。例えば心で観念が次々に継起し慣れているより短い時間で円形に動く事物は、動くとは知覚されず、その物質あるいは色の完全な真円に見え、動く円の部分とは見えない。

 私たちの感官のどれかに印銘が行われるさい、およそ継起はある程度までしか私たちに知覚できない。印銘が極度に迅速に行われると、真実の継起が明白にある場合も継起の感知はなくなる。
 継起が知覚されないことは、運動が大変遅くて心がその中へ新しい観念を受け取ることのできる早さで新規な観念の絶え間ない系列を供給しない場合にも起こる。物体は真実に動くが、じっと止まっているように見えるのである。

 私たちは運動から得る二物体間の中断されずに感知できる距離の変化が生む観念系列によるのと同じように明晰に、運動の観念が少しもなくても、心に次々と継起する運動以外の観念の系列により継起と持続の明晰な観念を持つ。

 一定の期間で区切ったものと持続を考えるのが、時間と呼ばれるものである。時間の便利な尺度として最も役立つのは、時間持続の長さ全体を、絶えず反復される周期によって外見上等しい構成部分に分割してしまうようなものである。

 太陽の日々および年々の周転は、恒常的で規則正しく全人類があまねく観察でき、毎回等しいと想定される。よって持続の尺度に用いられてきたのも当然である。しかし日や年の区別は太陽の運動に基づいてきたので、運動と持続は前者が後者の尺度だと考えられるようになってしまった。

 心は太陽の年々の周転のような時間の尺度をひとたび得てしまうと、この尺度自身が存在しなかったような、尺度の真実の在り方ではなんの関係もない持続へ、この尺度を当てはめることができる。

 私たちは時間の観念を持つようになるのと同じ手段で同じ源から、永遠と呼ばれる観念を持つ。持続の長さを自分の思惟の中で好きなだけ何度でも互いに足すことができ、過ぎ去った持続または来るべき持続へその長さを当てはめることができる。これを限度や制限なしに続け、無限に進むことができる。

 知識の二つの源泉すなわち内省と感覚から、私たちは持続の観念と持続の尺度とを得る。
 第一に、心に経過することを観察し、系列をなす系列が、絶えずあるものは消え、あるものは現れる様子を観察し、継起の観念を得る。
 第二に、継起の諸部分の距離を観察して、持続の観念を得る。
 第三に、等距離の周期を観察し、これで分・時・日・年などの尺度の観念を得る。
 第四に、持続の定まった長さの観念を心の中で望むだけ反復でき、明日とか来年とか七年後だとかを想像できる。
 第五に、時間のある長さについて思惟の中で望むだけ反復でき、相互に足せて、足すことの終わりに決して到達せず、無限な存有者の永遠だけでなく、私たちの霊魂の未来永遠の持続のような永遠の観念を得る。
 第六に、無限持続の任意部分を考察し、時間一般と呼ばれる観念を得る。


 (その4に続く)

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『人間知性論(二)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その2


【第十三章 単純様相について。まず、空間の単純様相について】(p.13~37)

 心は同じ観念の様々な変容を、存在する事物に見いだすか、あるいは何か外の事物の助けなしに、いいかえればなにか心以外のよそからの示唆に助けられず、心自身のうちに作ることができるか、そのどちらかである。
 ある一つの単純観念の変容は、心の中で完全に違う別個な観念である。たとえば二という観念が一という観念と別個なことは当然だが、二の観念は一の数という単純観念が反復されるだけで作られる。

 空間を任意の二つの存有者の間の長さの点だけで考え、その間にある事物を少しも考えないとき、距離と呼ばれる。長さと幅と厚さで考えるなら、容積と呼んでもよかろう。延長という専門語は通例、どのように考えられた空間にも適用される。

 違った距離はそれぞれ、空間の違った変容であり、ある違った距離ないし空間の観念はそれぞれこの空間観念の単純様相である。人々の思惟が定まった空間の長さや尺度に馴染んでしまうと、物体やその他どんな事物の観念も混ぜたり結びつけたりせず、この長さや尺度を望むだけ心に反復できる。望むだけ前の観念に足しても決して休止に到達できないという力能は、果てしなさという観念を私たちに与える。

 空間感覚の変容は、延長ないし仕切られた空間の終端部分相互間の関係である。この関係を触覚は、末端に触れることのできる可感的物体に発見するし、目は物体と色の限界が視覚内にあるとき、物体からも色からも得る。
 末端相互の関係の様子を観察すると、物体の形という観念が得られる。心の力能内に形の貯蔵は完全に尽きることなく、形を無限に増やせる。

 私たちはある事物と任意の二つまたはそれ以上の点との距離が、今日も昨日も同じであると見出され、それらは昨日から相互の距離を変えず、昨日もそうした点とある事物とを比較したというとき、ある事物が同じ場所を保っているという。

 一組のチェスの駒が盤の同じ目に置かれたままの場合、それを他の部屋へ運んでも駒はすべて同じ場所にある、つまり動かないと私たちは言う。
 私たちが場所と呼ぶ距離の変容は、当面の目的にに最もよく役立つ、最寄りの事物との関係でこの場所を考え決定するものである。ある詩の一節がどこにあるか場所を問う者には、ある図書館にあるとか言っても不適切で、どの著者のどの著作の部分にある、というような答えが適切である。

 場所についての私たちの観念は、ある事物の前述のような相対的位置にすぎない。場所の観念は、空間の観念を得るのと同じ手段で、つまり視覚と触覚によって得られ、このどちらによっても私たちは延長ないし距離を心に受け取る。

 デカルト派の人たちは物体と延長とは同じ事物だと主張する。しかし私はそうは考えない。まず延長は物体のように固性を含まない。いいかえれば物体の運動に対する抵抗を含まない。また、純粋空間の部分は相互に分離できず、連続態を分離することは真実にも心的にもできない。それに、純粋空間の部分は運動できない。


 (その3に続く)

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『人間知性論(二)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その1


【第十二章 複雑観念について】(p.7~12)

 心は単純観念を受け取るにあたってまったく受動的であるが、心自身の働きをいろいろ発動させて、単純観念以外の観念を、その材料であり根底である単純観念から形成する。

  ①いくつかの単純観念を一つの複合観念に集成すること。これにより複雑観念が作られる。

  ②単純観念であれ複雑観念であれ、二つの観念を互いに傍へ置いて、一つの観念に合一させずに一度に眺める。このやり方で関係の全ての観念が得られる。

  ③観念をその実在するときは同伴する全ての観念から分離する。これは抽象と呼ばれ、こうしてすべての一般観念が作られる。

 単純観念を寄せ集めて作った観念を私は複雑観念と呼ぶ。例えば美、感謝、人間、集団、宇宙のような観念であり、心はそれぞれをそれだけで一つの完璧な事物として考察し、一つの名前で意味表示する。

 心は感官によって外から来るもの以外の可感的性質の観念を持てず、思考する実体の作用について心が自分自身の内に見いだすもの以外の種類の作用の観念を少しも持てない。しかし、心はこうした単純観念をひとたび得れば、単に観察に局限されず、外から提示されるものに局限されない。心は自分自身の力能により、観念を寄せ集めて合一し、新しい複雑観念を作れる。

 複雑観念は『様相』『実体』『関係』の三項目に帰着できると思われる。

 様相というのはどんなに複合されていても、その中に自分自身で存立するという想定が含まれず、実体に依存するもの、つまり実体の性状と考えられる複雑観念である。たとえば三角形とか感謝などの言葉が意味表示する観念がそうである。
 この様相には二種類ある。ひとつは1ダースのように同じ単純観念の違った集成にすぎず、他の観念が少しも混じらないものである。これを単純様相と呼ぶことにする。
 もうひとつはいくつかの種類の単純観念を寄せ集めて、一つの複雑観念をなすように複合したものである。例えば美には、見る者に心地よさを生むような色と形のある集成から成り立つ。私はこれを混合様相と呼ぶことにする。

 実体の観念は、自分自身で存立する別個な個々の事物を表象するとされるような単純観念の集成である。例えば一定の重さ・硬さ・延性・熔性を伴う鈍く白っぽい色という単純観念が実態に結び付けられると、私たちは鉛の観念を持つ。
 実体にも二種類ある。ひとつは単独実体の観念であり、一人の人間とか一頭の羊とかのように別々に存在するものである。もうひとつは人間の集団とか羊の群れとかのように、いくつもの実体を寄せ集めた観念であり、これも一つの単独観念である。

 関係の観念は、一つの観念を他の観念と考えあわせ、比較するところに存する。

 もっとも難解な観念でも、どんなに感官や私たち自身の心のなにかの作用から遠く離れているように見えても、やはり知性が感官の対象から得た観念、もしくは対象について知性自身の作用から得られた観念を反復したり結び合わせたりして自分自身に形成するものである。


 (その2に続く)

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『人間知性論(一)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その9


【第九章 知覚について】(p.201~211)

 身体にどんな変更が加えられようと心に届かなければ、外の部分にどんな印銘がなされようと内部で覚知されなければ、知覚はない。火に手を近づけても、火が手を焼く運動が脳まで続いて、そこで脳の感官覚あるいは痛さの観念が心に生み出されない限り、それは火が手紙を焼くのと変わらないわけである。

 子どもがこの世に生まれてくる前に多少の観念を受け取ると想像することは道理にかなうが、その単純観念は、ある人たちが生得原理などと言い張るものにはほど遠い。

 感覚で受け取る観念は、成人ではしばしば判断によって変更されながら、私たちはこれに気づかない。盲人がほぼ同じ大きさの立方体と球体を触覚で区別できるようになったとしよう。この盲人の目が見えるようになったとき、触れる前に視覚でどちらが立方体でどちらが球体か答えられるかどうか。おそらくそれは不可能だろう。なぜなら盲人はまだ手を不平均に押す立方体の尖った角が、目に立方体の尖った角の現れ方をするだろうという経験を得てないからである。
 感官のなかで視覚は最も包括的である。視覚はこの感官に特有な光と色の観念を私たちの心に伝えるが、また触覚も伝える空間、形、運動という非常に違った観念も伝える。それらは光や色の現象態を変え、これらによって形などを判断するように習慣的になる。

 知覚はある程度までは全ての種類の動物にあると思われる。しかしある種類では、感覚を受け取るために自然に備えられた通り道は僅かだし、受け取られる知覚はきわめて不明瞭で鈍いので、他の動物の敏速かつ多様な感覚には全く及ばない。しかしその動物の状態・条件には十分であり、賢明に適応している。作り主の知恵と慈愛は宇宙の仕組みのあらゆる部分にだれにもわかるように現れている。


【第十章 把持について】(p.212~221)

 心が感覚や内省から受け取ってある観念を維持することを、私は把持と呼んでいる。これには二通りの仕方がある。まず、心へもたらされる観念をしばらく現実に眺め続けるという仕方があり、これは観想と呼ばれる。
 もう一つは印銘したのち消えてしまった観念を、心にまた再生する力能であり、これは記憶とよばれる。心はかつて持っていた知覚を、多くの場合前もって持っていたという知覚を付け加え、結びつけて再生する力能を持っているということである。

 注意と反復は、記憶に何かの観念を固定することを大いに助ける。しかし、まず自然に最も深く、最も永続的に印銘される観念は、快苦に伴われた観念である。苦は子どもでは考察と推理の代わりに、成人では考察よりも機敏に働くので、自己保存に必要なはやさで苦を避けさせ、未来に対する用心を記憶に定着させる。

 観念のあるものは、感官をただ一度だけ感発するような対象により知性に生み出される。また、何度も感官に現出したがほとんど覚知されなかったようなものもある。

 子どもが感覚し始めた時、心に産みだされた観念の多くは、かりにもしその後の生活の経過の中で二度と反復されなかったとしたら、まったく失せてちらりとさえ見えることはない。すべての観念は、心に最もよく把持される観念さえ、たえず衰えていくように思われる。感官あるいは内省を反復して使い、観念を時折新しくするのでなければ、観念の跡形は失せて、ついにはなにも見られるものは残らない。

 新しくされることの最も多い観念は、記憶に最もよく固定され明晰に長く留まる。物体の本原的性質つまり固性、延長、形、運動、静止についての観念や、寒熱のように身体をたえず感発する観念や、存在、持続、数のようにあらゆる種類の存有者の感発態で、
感官を感発するほとんど全ての事物も心を働かせる思惟も伴うような観念は、全くなくなることはない。

 憶起のとき、心はしばしば能動的になる。心はしばしばある隠れた観念を探しに働きだし、いわば霊魂の目をこの観念に向ける。また隠れた観念が自分から心に現れ、知性へ姿を出すこともある。そうした観念を、心は以前に印銘されたものとして覚知し、新しく識りなおす。

 記憶には二つの欠陥がある。第一に、記憶が観念を全く失い、その限り完全な無知を産む。第二に、記憶の働きは遅く、蓄えられている観念を必要に応じて心に役立てるほどに、敏速には取り出せない。役立つ観念を心に探しながら機会を逸する遅鈍な人間は、完全に無知な人間に比べても、知識に恵まれることが多いとは言いきれない。


【第十一章 識別その他の心的作用について】(p.222~234)

 心には、いくつかある観念を識別し区別する機能がある。ある事物の混乱した知覚一般を持つだけでは不十分である。一つの事物を他の事物から区別するこの機能に、これまで生得原理として通用してきたいくつかの、非常に一般的でさえある命題の明証性と絶対確実性は基づく。

 識別機能は心が自分自身に内省し、自分自身のうちに観察できる作用の一つである。この機能が正しく使用されなければ、思念は混乱し、理知と判断は攪乱され、あるいは誤りに導かれる。
 才知は観念を寄せ集め、類似や相同を見出せる観念を機敏かつ多様に並べ、これによって快い心象・快適な幻想を心想に作りあげる。これに対し、判断はこれとは反対で、僅かな違いでも見出せる観念を互いに分離し、相似や親近のために一つの事物を他の事物と取り違えることのないようにする。才知ある者が必ずしも明瞭な判断の持ち主ではない理由はこういうことである。

 観念をよく区別するには、明晰で確定的なことが主として貢献する。そうであれば、感官が同じ対象から違った機会に観念を違って伝えてひいては誤るように見えても、心は観念について混乱ないし間違いを生みだすことはないだろう。

 観念を範囲・程度・時間・場所、その他なにかの事情について相互に比較することは、観念に関する心のいま一つの作用であり、関係のもとに包括されるあの大きな観念族はすべて比較に基づく。

 人間知性が何かの観念を十分に区別し、したがって二つだと知覚するとき、その観念を比較できる諸事情を思いめぐらし考察することは、人間知性の特権であるように思われる。
 動物類はおそらく不完全にしか比較できないと思われる。

 心の構成作用により、感覚と内省から受け取った単純観念のいくつかを集め、複雑観念に集成する。拡大の作用もこの構成作用に数えてよい。
 動物類はおそらく僅かしか複合できないと思われる。

 子どもは反復して感覚し、観念を記憶に固定してしまうと、だんだんと記号の使用を習い始める。発声器官に分節音を作らせる技能を得てしまうと、自分の観念を意味表示するために、言葉を使い始める。

 心は個々の対象から受け取った個々の特殊な観念が一般的になるようにする。これは抽象と呼ばれ、個々の存有者から取られた観念は、同種類の全てのものの一般的代表となり、一般名がそうした観念に合致して存在するどんなものにも当てはめられる。観念にせよ名辞にせよ、普遍は作られる。
 動物類はおそらく抽象しないと思われ、一般観念を持つことは人間と動物類とを完全に区別させるものであるといえるかもしれない。

 生まれつきの白痴の欠陥は、英知の諸機能の機敏さや活動や運動の欠如から生じるように思われ、他方、狂人は正反対な欠陥に悩まされているように思われる。白痴は命題をごく僅かしか、あるいは一つも作らずまったく推理しない。狂人は観念を間違って集め合わせ、ひいては正しくない命題を作るが、それから正しく論じ推論する。


 (おわり)

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『人間知性論(一)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その8


【第六章 内省の単純観念について】(p.174~175)

 心はここまでの数章で挙げた観念を外部から受け取る。自分の持つ観念について営む自分自身の作用を観察するとき、これから別の観念を得る。

 知覚、つまり思考することと、有意、つまり意志することは、心の二つの大きな主要活動である。思考する力能は知性と呼ばれ、有意の力能は意志と呼ばれる。これら心の二つの力能ないし性能は機能と呼称される。


【第七章 感覚と内省の双方の単純観念について】(p.176~182)

 心地よさ、あるいは心地悪さは、どちらも感覚または内省のほとんどすべての観念に結びつき、外から感官が感発されたにせよ、内なる心のなにかひそかに思うにせよ、私たちのうちに快苦を産めないものはない。

 無限に賢明な造物主は、私たちの身体のいろいろな部分に、私たちが適当と考えるとおりに動かしたり静止させたりする力能を与えた。またいろいろな場合に心の観念のなかでその考えようとする観念を選抜し、あれこれの主題の探究を考え深く注意して追求する力能を与えた。そこで造物主は、私たちにできる思考や運動のいろいろな活動を喚起するため、いくつかの思惟と感覚に心地よさの知覚を付け加えた。

 苦にも私たちを働かせる効果がある。私たちは苦を避けるために諸機能をすぐ使う。ただ、私たちに快を産む同じ対象と観念がしばしば苦を産む。光も多すぎれば甚だしい苦の感覚を生むように、固有の機能を今後営むのに適さなくならないうちに遠のくよう、苦の感覚が警告するわけである。神は私たちを取り囲んで感発するすべての事物にさまざまな程度の快苦をまき散らした。

 存在と単一とは、外のあらゆる事物ならびに内のあらゆる観念が知性に示唆する二つの観念である。私たちが一つの事物と考えることのできる事物はすべて、実在する存有者にせよ観念にせよ、単一の観念を知性に示唆する。

 力能も感覚および内省から受け取るもう一つの単純観念である。私たちは身体の静止している部分を好きなように動かせることを自分自身に観察する。また、自然物が相互に産む結果は瞬間ごとに感官に現れる。私たちはこれらのどれからも力能の観念を得る。

 感官も示唆するが、私たち自身のうちに過ぎゆくものがいっそう絶え間なく呈示する観念がある。つまり継起の観念である。自分自身の中で観察できるものを内省すると、思惟する間はいつも観念が列をなして過ぎゆき、切れ目なく行き来するのを見出す。


【第八章 (感覚の)単純観念にかんする若干の補論】(p.183~200)

 白もしくは黒の観念を知覚し知ることと、ある対象を心へ白もしくは黒に現すにはどんな種類の分子でなければならず、表面にどんなふうに並んでいなければならないかを検討することとは、まったく別の事である。
 画家は黒白やその他の色の観念原因を一度も探究したことはないが、観念のどちらが実定的か欠無的かを知っていると考えている学者と同じように、黒白やその他の色の観念を明晰で完全かつ判明にもつ。そういう者にとって、黒の原因が単なる欠無にすぎないとしても、白の観念に劣らず実定的なのである。

 私たちは否定名を持っており、無味、無音、無のように実定的観念を端的に表さず、その不在を表すが、そうした言葉は味とか音とか有のような実定的観念を、その不在を意味表示しながら、示表している。

 観念に関する論議を理会できるようにするため、観念を心にある観念ないし知覚とする場合と、そうした知覚を私たちのうちに生む物体での物質の変容とする場合に区別すると便利である。観念は物体的主体に内属する固有なある事物の正確に心像・類似物だと私たちが考えないようにするためである。

 心が自分自身のうちに知覚するもの、つまり知覚とか思惟とか知性とかの直接対象であるもの、これを私は観念と呼ぶ。それを産む力能を、この力能が存する主体の性質と呼ぶ。

 物体がどんな状態であれ、物体からまったく分離できないようなもの、物体がどんな変更・変化を受けようともどんな力が加えられようとも、それらを通じて物体が不断に保有するようなもの、知覚するに充分なかさの物質分子のすべてに感官が不断に見出し分離できないと心が見出すようなもの、それらを私は物体の本原的性質または一次性質と呼ぶ。この性質が単純観念、つまりは固性、延長、形、運動、静止、数を産む。

 事物の感知できない部分のかさ・形・組織・運動によって多種多様な感覚を産む力能にすぎないような性質、たとえば色、音、味などを二次性質と呼ぶことにする。

 物体の一次性質の観念は物体の類似品であり、その範型は物体自身に実在するが、それら二次性質によって私たちのうちに産みだされる観念は、物体に少しも類似しない。二次性質の場合、私たちの観念に似た者は、物体自身のうちにはなにもない。

 物体にある性質は、正しく考察すると三種であるように思われる。第一に、物体の固性ある部分のかさ・形・数・位置・運動・静止。私たちに発見できる寸法のときは、この性質によって事物自身のあるがままの観念が得られる。これを一次性質と呼ぶ。
 第二に、物体の感知できない一次性質によってある特定の仕方で私たちの感官のどれかに作用して、私たちのうちに色・音・匂い・味などさまざまな観念を産む能力。ふつう、これらは可感的性質と呼ばれる。
 第三に、物体の一次性質の特定構造によって他の物体のかさ・形・組織・運動を変えて私たちの感官へのこの物体の作用を前と違わせる力能。たとえば火は鉛を溶かす力能を持つ。ふつう、これは力能と呼ばれる。

 物体の一次性質を除くと、それ以外の私たちに物体を知覚させ物体相互を区別させる全ては物体のそれら一次性質に基づくいろいろな力能に他ならない。これにより身体に直接作用していろいろ違った観念を産むか、ほかの物体へ作用してその一次性質を変え、前に産んだ観念と違う観念を私たちのうちに産めるようにするか、そのどちらかができるようになる。前者は直接に知覚できる二次性質、後者は間接に知覚できる二次性質と呼んでよいと思われる。


 (その9に続く)

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『人間知性論(一)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その7


【第二章 単純観念について】(p.158~161)

 観念のあるものは単純であり、あるものは複雑である。例えばロウの一片に柔らかさと温かさを感じるように、同じ対象から違う観念を同時に取り込むことができるが、合一している単純観念は違う感官によって入ってくる観念と同じように別個なものである。例えば氷に感じる冷たさと硬さは別個の心的観念である。

 私たちの一切の知識の材料である単純観念は、感覚と内省だけによって心に示唆され、備えられる。知性はそれらを多様に繰り返し・比較し・合一する力能を持つ。しかし取り入れられない新しい単純観念を心に作りだすことはできず、また知性のどんな力も知性にある観念をなくすることはできない。


【第三章 一つの感官の観念について】(p.162~164)

 単純観念は4つに区分できるように思われる。

  ①ただ一つの感官だけによって心へ入ってくる観念。
  ②一つ以上の感官によって心に伝えられる観念。
  ③内省だけから得られる観念。
  ④感覚および内省の全ての道によって来て、心に示唆される観念。

 ①はある観念をとくに受け取るのに適した一つの感官を通じて入ってくる観念である。色は目に、音は耳によって、というようにである。これらが機能を果たせなくなれば、知性に知覚される別の道はない。

 それぞれの感官に属する個々の単純観念を全て列挙する必要はない。しようとしてもできない。たとえばこの世に存在する匂いは、物体の種類とほとんど同じくらい多様である。それらの大部分は名前を欠いており、普通は良い匂いと悪い臭いとでそれらの観念を呼べば間に合う。しかしそれは気持ちがよいとか悪いとか呼ぶのと変わらず、しかもバラの匂いとスミレの匂いはどちらも良い匂いだが、絶対確実に別個な観念である。


【第四章 固性について】(p.165~172)

 固性の観念は触覚で受け取られる。占有する場所を去るまで、この場所へ他の物体が入らないようにする、その物体に見いだされる抵抗から生じるものである。二物体が互いに向かい合って動くとき、二物体の近接を妨げるものを、私は固性と呼ぶ。固性は物体にもっとも密接に結合していて本質的な観念であるように思われる。
 固性観念は物体に属して、物体が空間を満たすと想念させる観念である。私たちがふつう手にする物体は、空間を満たすという観念を私たちに十分あてがってくれる。

 固性は充実していることで、その占有する空間から他の物体を排除することだが、硬さはある感知できるかさのかたまりを作り上げる物質部分がしっかり凝集し、全体がその形を簡単には変えないことである。硬い物体が柔らかい物体より大きな固性を持つわけではない。

 固性観念により物体の延長と空間の延長が区別される。物体の延長は固性を持ち、分離できて、運動できる部分の凝集ないし連続だといえる。空間の延長は固性を持たず、分離できず、運動できない部分の連続である。また物体相互の衝撃・抵抗・押し出しも物体の固性に基づく。


【第五章 さまざまな感官からの単純観念について】(p.173)

 私たちが一つ以上の感官によって得る観念は、空間ないし延長、形、静止、運動の観念である。これらは目と触官に印銘されて知覚でき、見ても触れても、物体の延長、形、静止、運動の観念を受け取り、心に伝えることができる。


 (その8に続く)

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『人間知性論(一)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その6


《第二巻 観念について》


【第一章 観念一般ならびにその起原について】(p.133~157)

 疑いもなく人々は、白さ・甘さ・運動・酔い、その他ことばで表現される観念のような、いくつかの観念を心に持っている。そこでまず探究すべきことは、人間がどのようにしてこれらの観念を得るかである。

 心は言ってみれば文字を欠く白紙で、観念は少しもないと想定してみよう。どのように心は観念を備えるようになるか。膨大な貯えをどこから得るか。理知的推理と知識の全ての材料をどこからわがものにするか。これに対し、私は一語で『経験』からと答える。この経験に私たちの一切の知識は根底を持ち、一切の知識が究極的に由来する。

 私たちの感覚器官は対象が感発する仕方に応じ、黄・白・熱・冷・柔・硬・苦・甘、その他可感的性質と呼ばれるものについて、私たちの持つ観念を得る。私たちの持つ観念の大部分の源泉はまったく感覚器官に依存し、知性へもたらされるので、私はこの源泉を感覚と呼ぶ。

 経験が知性に観念を備える他の源泉は、知性が既に得てある観念について働くときの私たちの自身の心の色々な作用についての知覚である。私たちの心のいっさいの様々な働きであり、信じること、推理すること、意志することなどがある。この源泉は外的対象と少しも関係がないが、内省と呼んでおくことにする。これは心自身の作用について、心が行う知覚の事だと理解していただきたい。
 感覚の対象としての外なる物質的事物と、内省の対象としての内なる私たち自身の心の作用、これら二つだけが私たちの一切の観念のはじまる源だと思われる。

 知性には感覚的事物と心的作用の二つの内、一つから受け取らないというような観念はないと思われる。いかに大量の知識が知性に宿っていると想像するにせよ、感官の対象や心の作用が印銘しておいたものの他はどんな観念もない、と思われる。

 この世に生まれる者は全て、自分を不断に様々に感発するいろいろな物体に囲まれており、気をつけようとつけまいと、多様な観念が子どもたちの心に印銘される。とはいえ、仮に子どもが大人になるまでモノクロの世界に置かれれば、緋や緑の観念を持たない。これは幼年時代からパイナップルを味わったことのない者は、その独特の風味の観念を持たないのと同じである。

 人々はその交渉を持つ対象がもたらす多様性に応じ、外からまた内なる自分たちの心の作用を内省する多寡に応じ、単純観念を備えるようになる。また、注意深く細かな考察に専念するまで、全部分の混乱した観念しか持てない。

 心の作用は心の中で連続的に起こるが、知性が内へ自分自身に向いて自分自身の作用を内省し、自分自身の観想の対象としないうちは、明晰判明な永続する観念を残すほど深くは印銘されない。

 どれほど思考を霊魂の固有な活動であると想定しても、霊魂はいつも思考しいつも活動するとは想定できない。それはおそらく有限な存有者である人間の霊魂の権限にはないことである。

 霊魂が思考し、人間はこれを知覚しない、という想定は一人の人間の内に二人の人間を作るようなものである。

 人間はいつ観念を持ち始めるかと尋ねられれば、初めて何かを感覚するときというのが真の答えだと思われる。感官が何かの観念を伝え入れないうちは心になんの観念もなように見え、知性にある観念は感覚と同時だと思われるのである。

 心は感覚によって得られた観念に関する自分自身の作用を内省するようになり、これにより内省の観念と呼ばれる新しい一組の観念を貯える。これらは心の外の外部対象が感官に行う印銘と、心本来の固有な力能から生じる心自身の作用であり、この作用も心が内省すると心の観想の対象となる。
 心は印銘を受け取るように仕組まれており、これこそ人間がなにか事物の発見に向かって進むようになる第一歩であり、この世で人間が自然に持つような一切の思念に築かれる土台である。


 (その7に続く)

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