~何か書く~

暇を持て余す無職です。読んだ本の要約などを書いていきます。

『人間知性論(二)(ジョン・ロック)』(岩波文庫) その2


【第十三章 単純様相について。まず、空間の単純様相について】(p.13~37)

 心は同じ観念の様々な変容を、存在する事物に見いだすか、あるいは何か外の事物の助けなしに、いいかえればなにか心以外のよそからの示唆に助けられず、心自身のうちに作ることができるか、そのどちらかである。
 ある一つの単純観念の変容は、心の中で完全に違う別個な観念である。たとえば二という観念が一という観念と別個なことは当然だが、二の観念は一の数という単純観念が反復されるだけで作られる。

 空間を任意の二つの存有者の間の長さの点だけで考え、その間にある事物を少しも考えないとき、距離と呼ばれる。長さと幅と厚さで考えるなら、容積と呼んでもよかろう。延長という専門語は通例、どのように考えられた空間にも適用される。

 違った距離はそれぞれ、空間の違った変容であり、ある違った距離ないし空間の観念はそれぞれこの空間観念の単純様相である。人々の思惟が定まった空間の長さや尺度に馴染んでしまうと、物体やその他どんな事物の観念も混ぜたり結びつけたりせず、この長さや尺度を望むだけ心に反復できる。望むだけ前の観念に足しても決して休止に到達できないという力能は、果てしなさという観念を私たちに与える。

 空間感覚の変容は、延長ないし仕切られた空間の終端部分相互間の関係である。この関係を触覚は、末端に触れることのできる可感的物体に発見するし、目は物体と色の限界が視覚内にあるとき、物体からも色からも得る。
 末端相互の関係の様子を観察すると、物体の形という観念が得られる。心の力能内に形の貯蔵は完全に尽きることなく、形を無限に増やせる。

 私たちはある事物と任意の二つまたはそれ以上の点との距離が、今日も昨日も同じであると見出され、それらは昨日から相互の距離を変えず、昨日もそうした点とある事物とを比較したというとき、ある事物が同じ場所を保っているという。

 一組のチェスの駒が盤の同じ目に置かれたままの場合、それを他の部屋へ運んでも駒はすべて同じ場所にある、つまり動かないと私たちは言う。
 私たちが場所と呼ぶ距離の変容は、当面の目的にに最もよく役立つ、最寄りの事物との関係でこの場所を考え決定するものである。ある詩の一節がどこにあるか場所を問う者には、ある図書館にあるとか言っても不適切で、どの著者のどの著作の部分にある、というような答えが適切である。

 場所についての私たちの観念は、ある事物の前述のような相対的位置にすぎない。場所の観念は、空間の観念を得るのと同じ手段で、つまり視覚と触覚によって得られ、このどちらによっても私たちは延長ないし距離を心に受け取る。

 デカルト派の人たちは物体と延長とは同じ事物だと主張する。しかし私はそうは考えない。まず延長は物体のように固性を含まない。いいかえれば物体の運動に対する抵抗を含まない。また、純粋空間の部分は相互に分離できず、連続態を分離することは真実にも心的にもできない。それに、純粋空間の部分は運動できない。


 (その3に続く)
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